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ゴーストライター事件で改めて浮き彫りになった事

今回の事件は僕等音楽家にとって大きく考えさせられる事件でした。
3つのテーマに分けて雑感を書いてみました。

1. 新垣隆氏とゴーストライターという職業について、個人的な意見としてはこういう職業については賛成ではありません。するのもされるのも反対ですが万が一曲を提供するとしたら墓場まで持ってくくらいの覚悟が無いとしてはいけない仕事だと思います。無条件に佐村河内氏を信じてしまい、18年間佐村河内氏が築き上げたものを壊そうとは到底思えなかったのだなと、新垣氏の記者会見ではその様な人間的な優しさが垣間見えました。反面双方で金銭のやりとりが行なわれ仕事として成立していたにも関わらず口外してしまった事というのはゴーストライターとして失格だな、と音楽家目線から感じてしまいます。

2. 佐村河内守氏について、稀代のペテン師、欲望の塊、独裁的な教祖の様。嘘で塗り固められたキャラクタープロデュースにおいては最悪です。ですがですが一方で実はこの人は音楽においては名プロデューサーの一面有りだなとも感じました。作曲家の中では大きく分けて二種類に分類されると思います。オーダーがありその発注に合った曲を作るスタイルの人、自分の創造したいものを追求していくスタイルの人(その両方もいる)。新垣氏の場合後者だったと思うのですがアカデミックな作曲法を勉強された方などはより後者の場合が多いと思い、割と高い確率で現代音楽の世界だけにとどまってる方々も多いと思います。商業音楽とはあえて距離を置いている所に新垣氏の様に作曲の能力が高い人達がいて、それを音楽プロデューサーとして佐村河内氏が世間に商業音楽として掘り出したら好評を得た。いわば作曲家の作曲自体をプロデュースするという共同作業。添付の指示書(そもそもこの指示書自体を奥さんが書いたという説もあります)では結構むちゃくちゃな事を書いていると思いますが、後者の様な作曲家の場合自分の創造したいものを追求して行こうと思いますから自分の「良」と大衆の「良」が必ずしも一致するわけではなく、特に後者の場合大衆の「良」を度外視している人達が多くいるわけで、誰々風に作るなんて簡単に出来るがあえてしたく無いという人達が多い中で、(キャラクターの嘘プロデュースはさておいて)音楽面でプロデュースされるという制限を持つからこそ商業として成功した部分もあるのでは無いでしょうか。もちろんその様に共同作業をやってきたクリエイター達は今まで多くいたとは思いますが改めてそのフィールドだけに居続ける作曲家を違うフィールドにうまく展開するプロデュースというものの効果を明確にしたと思います。まあ自分がこの様な音楽プロデュースのされ方で成功したとしても嬉しくはありませんが。

3. そして最後にこの件が今回の事件で一番音楽仲間の間で話されている事ですが、聴衆は純粋に音楽の善し悪しよりアーティストのキャラクターやバックボーンに感動を覚えてそれを音楽に乗せて聴いている人の割合の方が多いという事実が改めて露呈したという事です。もちろん、仮に僕があるアーティストの音楽が純粋に好きで聴いていたとして、その人と接した時にもの凄く感じ悪かったとしたらもう聴き続けたいと思わないと思います。音楽家ですらその人自身を知る事にその人の音楽の好き嫌いへの影響がある事は否めません。海外でもスーザン・ボイルなどのシンデレラストーリーが好まれる傾向はありますが、ただやはり日本ではその傾向がとても強いと感じます。そこを知る佐村河内氏は大いにそれを利用して、その増幅を結果的にメディアや音楽会社がしてしまいました。新垣氏の様に素敵な曲を作っている才能ある作曲家は多分日本にまだまだ埋もれていて、そのアーティストに目新しいキャラクターやバックボーンが無い限りメディアも取り上げなければ聴衆にも聴かれず日の目を見る事もなく消えて行く。今回の事件はそんな日本の音楽の傾向に対する警鐘の様な気がします。